3年前の今日,私のまわりではどんなことがあったのかを思い出してみます*1.そして,改めて,私は,未来への希望を捨てないことを宣言します.
2011年3月11日
3年前の2011年3月11日,快晴,相模原キャンパスでは新病院建設工事が進められていました.
この日の北里ランチはこんなメニュー*2.
翌日に「春の大学説明会」を控えており,相模原キャンパス内には案内看板とかポスターとかが設置されていました.校舎内でも教室の片付けとか荷物の運び込みとが進められていました.
春休み期間中の,のんびりした平日が続くはずでした.
地震だ!免震構造ビルの5階ゆーらゆら.
— 野島高彦 Takahiko NOJIMA (@TakahikoNojima) 2011, 3月 11
この時点では,のんきに「ゆーらゆら」などと書いている余裕があったのです.
津波が来るとか,原子力発電所が大事故を起こすとか,輪番停電が始まるとか,海洋生命科学部の三陸キャンパスが被災して相模原キャンパスに移転するとか,発電方式が選挙の争点になるとか,そんなことは全く予想していませんでした.
公共交通機関がストップしてしまったため,帰宅するのは止めて,朝まで大学で過ごすことにしました.帰宅できなくなった学生や教職員のために非常用の毛布が配布され,講義室が宿泊用に開放されました.
私は研究室で朝まで過ごすことにしました.「眠れないー」と言いながらキャンナビの1年生が2人やってきたので,いっしょに朝が来るのを待ちました.@pocamericanada と @manomanoe ね.この二人は今月で卒業です.
1987年頃の大学生活についてアレコレ聞かれたので,記憶の引き出しをひっくり返しておもしろおかしく話したり,近くにあった実験器具の取り扱いを教えたり,眠たくなるまで,いつもとちがう速度で流れる時間を過ごしました.
2011年3月12日
朝の3時,2人を起こして化学研究室を施錠.私は一人,橋本駅まで歩くことにしました.キャンナビの2人は大講義室に移って睡眠続行*3.私は2時間近く歩いて,始発電車の時刻に橋本駅に到着し,数分遅れで到着した電車に乗って帰宅.
帰りますよ。橋本駅まで歩きますよ。 (@ 北里大学 相模原キャンパス L1号館) http://4sq.com/hmAcOW
— 野島高彦 Takahiko NOJIMA (@TakahikoNojima) 2011, 3月 11
北里大学から橋本駅までの県道507号、57号、国道16号、は安全に歩けました。歩道にはところどころ亀裂が入っていましたが、今回の地震によるものかどうかは不明です。#jishin
— 野島高彦 Takahiko NOJIMA (@TakahikoNojima) 2011, 3月 11
静かな朝の街を一人で歩いているとき,前日に地震があったのは何かの勘違いなのではないかと思えてきました.
自宅に着いて,ガス栓を回復して,シャワーを浴びて,一眠り.午後に目を覚まして,福島の原子力発電所が事故を起こしたことを知りました.
輪番停電の時期の記録
JR相模原駅ではエスカレータが使用停止.
大学もエレベータ使用停止.
食堂の営業時間短縮処置.
震災が私自身に起こした変化:思いのバトンタッチが未来の社会を建設する
(1) そこには「人」がいる,ということに気付きました
被災地のために募金活動をやることにしたのでお知恵拝借,っていう学生がやって来るようになりました.
震災について たくさんの人々に関心をもってもらい,募金という形で善意を束にして被災地支援活動にバトンタッチするという流れを,彼らは作ろうとしていたわけです.
集金効率だけ考えたら,寒い街頭で募金箱を抱えて見知らぬ人々に声を張り上げて募金を募るより,日給の高いバイトをみつけてきてバイト代をそっくり慈善団体に寄付するという選択肢も考えられます.しかし,そのやり方ではお金を届けることはできても,善意を届けることはできません.人から人への思いのバトンタッチ.社会を維持し,建設して行くためには,そういうものが必要なんだろうっていうことを考え始めるようになりました.
(2) 人と人とをつなぐためにインターネットのポテンシャルを活かそうと考えるようになりました
↑三陸キャンパスへの救援バス
海洋生命科学部の三陸キャンパスが被災して,大学では安否情報収集にとりかかったのですが,電話もダメ,電子メールもダメ,という状況が続きました.大学ではwebサイト内に震災関連情報のページを作って公開していたし,安否情報の問い合わせ先電話番号もここに記していたのですが,「そのようなページが存在するということを被災者や関係者に知らせる手段」がありませんでした.
一方,Twitterのシステムは生き残っていて,三陸キャンパスの在学生や,家族や,友人からの安否情報が流れていたり,安否情報問い合わせ先を尋ねるツイートが流れていました.そこで,Twitter検索を使って,安否情報を求めている人を探しだし,必要な情報を届けて行くことにしました.この取り組みに賛同してくれた学生がいて,交代で安否情報の交通整理をしてくれました.
メッセージは私の知らない人の間で次々にバトンタッチされていって,確かに届けられました.SNSがあったからこそできたことでした.それは端末から端末への情報伝達ではなく,人から人への思いのバトンタッチでした.このときの経験が,キャンナビのWeb展開とか,北里つながろうプロジェクトに結び付きました.
3年前はTwitterがダウンせず生き残っていたので,三陸キャンパスの安否確認に,アイコンを見ただけで判別できる北里大学公式アカウント(入学センター業務用に取得)を,承諾を得ずに使ったんだけど,事後承諾が取れて良かった.救助活動優先.建学の精神→「事を処してパイオニアたれ」
— 野島高彦 Takahiko NOJIMA (@TakahikoNojima) 2014, 3月 11
(3) 化学講義の目指すところを見直しました
化学の講義では,人類には技術の進展によって様々な問題を解決してきた実績と能力があること,その能力はこれからも進歩して行くものだから,今回の災害に負けることなく,人類は未来の社会を建設して行くと考えて良いこと,を伝えることにしました.
その他のアレコレも,判断基準として,「それは未来の社会を建設することに貢献できるのか?」と考えるようになりました.
未来の社会を建設するために
震災前後で学生の雰囲気が変わったと言われれば変わったようにもみえるし,変わってないと言われればそのようにも見えます.世代が違うと単純には比べられません.私が私の周りの学生について感じるのは,利他的な行動を自然に取れる学生が多いということです.そういう学生が卒業して,未来の社会を建設して行くのだと思うと,そこに希望を抱けます.
だから私は,改めて,未来への希望を捨てないことを宣言します.
そんな未来で暮らしてみたいと願うようになって,100才まで健康で生き続けたいと考えている最近の私です.