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Life + Chemistry

化学の講義録+大学を楽しく面白い学びの場に変える試みの記録 (北里大学・野島 高彦)

100才まで生きようプロジェクト!

考え方

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突然ですが100才まで生きることに決めました.

「100才まで生きようプロジェクト」!

なんでそんなことを考えたのか

未来の社会づくりにプラスできる何かを残そう,って思って化学講義を組み立てたり,初心者にもわかる化学の教科書を書いたり,学生といっしょにわるだくみイロイロ企画したりっていう具合にアレコレやってるうちに,そうやって自分自身も関係しながら つくられて行く未来の社会ってやつを,自分自身でしっかりと見たいぞ! って思い始めたからです.

さらに今春,長女が大学で建築学を学び始めたので,長女が設計するなり検査するなり何らかのかたちで係わった建物や空間が組み込まれた未来の世界っていうのも見てみたいぞ! って思い始めたからです.

そのためには100年くらい生きないとね!

前はどう考えていたのか

人生の長さを65年と仮定する

人生の長さを65才までと仮定して生きてきました.

寿命っていうのは予測不可能なので,仮定するしかありません.

仮定しておいて,その範囲で持ち時間を意識して毎日を過ごすわけです.

なんでその長さに設定したのか

65年っていうのがイメージしやすい長さだからです.

60でも70でも同じようなものなんでしょうが,北里大学の定年が今の規程では65才なので,その長さにしてあります.

私の父は私が29才のときに61才で他界しています.

親戚にも60あたりでお別れした人がたくさんいます.

私にとって,60代前半っていうのはとてもリアルな人生の長さなのです*1

人生の持ち時間における「選択と集中」

人生の持ち時間を仮定しておくことは,物事に対するブレない判断基準となりました.

持ち時間は単調減少しているので,何かをやろうとしたり,何かを頼まれたりしたときは,限りある人生の残り時間を割り当てる価値があるかどうかで判断すればいいわけです*2

人生がいつまでも続くものだと勘違いしていると,無駄なシゴトを引き受けて人生の持ち時間を浪費するわけです.それイヤ.

具体的にどういうことか?

たとえば,仮に私の好奇心がキマグレを起こして,新しく外国語をマスターしようとか,コンピュータ言語をマスターしようなどと思い立ったときのことを考えてみましょう.

そういうものごとをマスターするには5年とか10年とか15年とかが必要なわけです.他にもイロイロやってるわけですから.

そうすると,苦労して時間をかけてマスターしても,それを使う時間が人生には無いわけです.

コレは無駄です無駄,無駄無駄無駄*3

だからそういう物事には手を出さないわけです.

このあたりの考え方,つまり「勉強することの危険性」*4は,渡部昇一氏の「知的生活の方法」にもくわしく書かれています.

友達と一晩飲んだとか、ヘボ将棋をしたとかいうのは,まったく無駄な時聞のようであるが、気晴らしや気分転換にもなっているので、大したことはない.危険なのはまさに勉強なのだ.たとえば、ギリシア語かラテン語の勉強をしたとする.(中略)ギリシア語やラテン語をマスターするにはほとんど半生を要するし,(中略)膨大な時間を毎日無駄にしていることになる.たまに友達と飲んだり,将棋をさすのとは桁違いに大きな時間とエネルギーの空費である.

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

100年生きることにすると何が変わるのか

人生の長さが65年だと考えていた頃

長期的にみて社会のプラスになりそうなシゴトをしているとき,「コレは自分の娘とかその世代,さらにその先の世代に返ってくるシゴトをしてるんだなー/実際にどうなるのか自分が見ることはないだろうけれど」と考えることが,これまではよくありました.

次世代への貢献とかバトンタッチという意義は感じていたものの,いま振り返ってみると他人事だったような気もします.

人生の長さが100年だと考えるようになって

「コレは自分の娘とかその世代,さらにその先の世代に返ってくるシゴトをしてるんだなー」というところまでは変わりません.

しかし,その先に「ソレを,生きて見てやる!」っていう思いが続くようになりました.

もう他人事ではなくて,自分の問題なのです.

でも時間の使い方は変わらない

だからといって,新しく外国語に新しく手を出すとか,コンピュータのプログラミング言語に手を出すとか,そういうことはありません.

そういう労力に対してのリターンは65才までに返って来ないと活用しようがないからです*5

65才以降は,65才までに見たり感じたり考えたり出会ったり願ったり企んだり痛い目に遭ったりしたものごとをインプットとする,アウトプットが続く時期にしたいわけです.

実際どうなるかはわかんないけど.

私くらいの年齢とか,もうちょっと上の年代だと,新しいことを吸収するのを止めちゃって,何かに挑戦するのも避けるようになっちゃったアレなヒト*6が増えてきますが,100年生きることを前提に生活していると,そういうことよりもエキサイティングな物事でアタマの中がいっぱいなので人生がステキ.ララララ Life goes on.

可能性はあるのか

イケるんじゃないかと感じてます.

メタボ検診は余裕でパスするし,健康診断をやると理想的な数値が並ぶし,タバコは吸わない,酒もたいして飲まない,アッサリした味の食べ物が好きで,危険なスポーツもやらないし,そういう生活にストレスを感じないし,ストレスになりそうな単調業務は自動化を考えるし.

化学実験の影響がどれくらいかは不明.

もし100才まで生きられなかったら

なお,プロジェクトが失敗した場合には,死をもって責任をとらせていただきます.

追記(2013−05−07)

プロジェクトとは言っていますが,100才まで生きるために何か特別なことをやろうっていうわけじゃなくて,人生の長さが100年だと仮定して人生を捉え直して生きて行こうという,ちょっとした発想の転換なわけです.

定年退職制度がある組織に勤務していると,「定年までの『人生』」と「定年後の『余生』」っていう捉えかたをしがちですが,そうじゃなくて,「100年の『人生』の途中に定年退職というイベントも経験する」くらいに考えるわけ.

このブログを書いている人

takahikonojima.hatenablog.jp

*1:親戚の多くが60あたりで他界してるから遺伝的に自分の寿命もそのあたりだろう,という考えではありません.遺伝的要素よりは日常生活の方が寿命の長さを支配していることでしょう.

*2:たぶん,これまでに私がすっぽかしたシゴトの半分は,単に私が忘れていたもので,残り半分は故意にぶっちぎったものです.だってソレ,何のためにやらなきゃいけないのかわかんないものだし,そんなのより自分の人生の方が大事だもん.

*3:練習したり勉強したりすること自体が楽しいのであればハナシは別ですけどね.そうじゃないですよ私は.

*4:そういう意味で大学時代っていうのは時間を掛けて学問に取り組むことのできるステキな時期です.「勉強は働いてからでもできる.学生時代は遊びなさい」っていうのは,大学時代を浪費して過ごしたオトナの珍言説です.働きながら片手間でもできる「勉強」ってのはありますが,体系的に物事を習得して行く学びとしての「勉強」は,片手間では無理.

*5:実際にはそうでもないのかもしれないけど.

*6:「定年まで残り何年ー♪」とか「退職金はいくらもらえるのかなー♪」とか「若いやつらはかわいそうだなー年金も退職金ももらえないだろうしなーw」なんていうことばかり考えてるオトナの一人や二人,あなたの周りにもいるでしょ?