Life + Chemistry

化学の講義録+大学を楽しく面白い学びの場に変える試みの記録 (北里大学・一般教育部・野島 高彦)

竹内 健 先生の『10年後、生き残る理系の条件』は,エンジニアにも,これから就職する人々にも,工業国としての日本がどういう状況なのかを整理して理解したい人にもおすすめの一冊

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竹内健先生 @kentakeuchi2003 の新刊『10年後、生き残る理系の条件』が主な読者として想定しているのは,現役のエンジニアや研究者です.「はじめに」の項に そう記されています.

しかし,就職活動を控えている理工系大学生・大学院生にとっても将来のことを考えるうえで参考となる事例紹介やアドバイスが詰まった一冊になっています.たとえば会社に就職すると入社後に どのように評価されて行くのか,その際に理不尽な思いをする場合もあるが,なぜそうなっているのか,というような仕組みも説明されています.

さらに,日本の製造業が今どのような状況にあるのか,特に1980年代から1990年代にかけて世界トップレベルの座にあった日本の半導体産業に何があってどのような経緯を経て現在に至るのか,という点に関心のある人々にも,理系・文系を問わず,おすすめの一冊です.

10年後、生き残る理系の条件

10年後、生き残る理系の条件

どんなことが書かれているのか

大学院で物理工学の修士課程を修了後,電機メーカーに半導体エンジニアとして勤務し,途中MBA留学で渡米,帰国後にエンジニアのチームをマネジメントする仕事を担当,その後に大学教員,という経歴の著者が,自らの人生経験に基づいて,主にメーカー勤務のエンジニアにアドバイスをしています.

アドバイスは精神論ではなくて,どのような仕組みになっているからどのようなことが起こる,という説明に基づいています.その「仕組み」も,製品の特性であるとか,市場の特性であるとか,個人の判断であるとか,社会の特性であるとか,そういった さまざまな要素が組み合わさったものです.

それを,半導体産業と そこで過ごした日々を例に取り上げて様々な角度から一段ずつ説明して行く,という構成になっています.

巻末には電機メーカー人事担当経験者との対談が収められており,人事担当と技術担当でどのように考え方が違うのかがわかります.

精神論で書かれていないことに好感を持てる

経営の仕事していない人々にとっての経営って何だろう?

世の中のあちらこちらで聞かれる主張に,「従業員であっても『経営者の視点』を持たなければならない」とか「これからは『経営学的な考え方』が欠かせない」というものがあります.しかし,それがなぜなのかがハッキリしていないことも珍しくありません.

この本ではその理由が明確になっています.それは,自分自身の人生を「経営」して行くためには,「経営者の視点」とか「経営学的な考え方」が役に立つ,というものです.会社を経営している人々と同じ責任を果たせ,という意味ではないのです.

まず,自分が所属する組織がどのように経営されているのか,を理解しておかなければ,自分が次にどのような状況に置かれるのか,どのようなリスクがやって来るのかを考えることができません.従業員は経営者の決定に基づいて仕事を進めて行くので,自分たちが向かう方向がどのような考え方で決定されるのかを理解することは役に立ちます.それが「経営者の視点」を持つということになります.

それから,どの職業であっても,人生そのものは自分自身でどうにかしなければならないものであって,その「どうにかする」というのは「経営」に他なりません.仕事に限らず人生は様々な人々との共同作業の連続です.目標達成のために自分自身も含めた人々を動かす行為は「経営」です.

相手の視点で考えるのは自分のため

「相手の立場に立って考えなさい」とか「相手の視点でものごとを見なさい」という言葉も世の中のあちらこちらで聞くものです.そして,それがなぜなのかがハッキリしていないことも珍しくありません.「それは思いやりである」みたいな精神論になっちゃってあーあっていうのとか.

エンジニア出身の著者は,日本のエンジニアが人生において もったいないことをしている性質として,自分自身を説明する言葉の少なさと,その際の視野の狭さを挙げています.その結果として自分自身の商品価値を下げてしまっているのです.

たとえば半導体工学のエンジニアが別分野に進路変更する場面がとりあげられています.進路変更先として有望な候補の一つとしては自動車産業が挙げられます.電気自動車の開発が進んでいるし,ガソリンエンジンの自動車でもコンピュータ化が進んでいるので,半導体工学のエンジニアに活躍する場面があるのです.

ここで自動車メーカーの人々に対して自分自身を売り込むために,半導体工学エンジニアとしての実績やスキルを詳しく説明したところで,わかってもらえません.それは「相手の立場から考える」という視点が無いからです.

こうした場面では,相手の視点から自分自身を見ることが必要です.相手がどのような自動車を作っていて,どのような部品が使われていて,そこにはどのような半導体が使われていて,そこにはどのような課題が残されていて,それに対して半導体工学エンジニアの自分は どのように貢献できるのか,という説明が必要です.

日頃から このような考え方をしていれば,システム開発でエネルギー分野に進路変更したり,センサ開発で医療分野に進路変更したりっていう未来も拓ける(かもしれない)わけです.

自分のことがわかるのは自分だけなので,相手の視点で自分を見ないとどうにもならないわけです.それは相手のためではなく,自分のためです.

世の中を批判していない点に好感を持てる

「これだから日本はダメなんだ」とか「これからは日本も変わらなければならない」というような,具体的に誰がどのような行動を取れば解決するのかが省略された主張は昔から珍しくありませんが,この本ではそういう無意味な主張は展開されていません.

技術開発の現場にしろ,企業にしろ,社会にしろ,完璧ではない人々の営みであって,すべてを理想的に進めることは期待できない.だから,どういう仕組みになっているのかを理解したうえで,理想的な状態を求めるのではなく,自分自身が人生をどのように進めて行くべきなのかを自分自身で考えよう,というメッセージが最後まで貫かれています.

それでも,日本で行われているものごとに対して問題提起は なされています.具体的には139ページの

最近の学校は、「創造性を持った課題解決能力の教育をします」「プレゼン力、コミュニケーション能力を育成します」とアピールするところが目立ちます。それに、「グローバル力」を付ければ完璧でしょうか。

とか,それに続いて,

基礎の教育がおろそかなままで、「創造性を発揮して」「課題を解決し」「プレゼンしろ」と言われたら、デタラメを堂々と話す若者が量産されるのは必然です。

とか*1

それから,

それまでは「できっこない」と言っていた人たちが手のひらを返して参入してきます。ただ、そういう流行で入ってくるような人達は、やがて負けて撤退して行きます。そして、「日本では半導体はダメだ」と言い出す始末。

これ,似たような光景をあちらこちらで見ました.

SNSの重要性

83ページではSNSで情報発信することの意義が,111ページではTwitterが無かったら生まれなかった技術が紹介されています.

たとえば,Twitterを介して偶発的に「忘れられる権利」という考え方が存在することを知り,それを実現するために ある決まった時点でデータを壊す仕組みを開発した,とか.

84ページには

意外かもしれませんが、若手の官僚にはソーシャルメディアを活用している人がかなりいます。そうでないと、陳情にやって来る業界団体からの情報ばかり耳に入ってきて、陳情者以外の意見がわからなくなっていく、そういう危機感を持って仕事に当たっている官僚もいるのです。

また、ツイッターでのつぶやきをきっかけに異分野の方との情報交流が始まることもあります。

とあります.

こうした文章の後に「だからあなたもSNSを使いなさい」とか「SNSを使わないやつはダメだ」って来ないところに好感が持てます.

それと同時に,「(わかってる人は わかってるのだから,こう言ってもわかんないヒトたちは置いておいて,私たちはどんどんネットワークを広げて,どんどん先に進みましょう)」って著者は考えているんじゃないかって,私は想像しています.

私自身の人生に照らし合わせてみると

著者と私とは専攻も違うし,共通項は大学で工学系の教育を受けた,ということと,いま私学で大学教員をやっている,ということくらいです.

それでも「確かにそうだ!」って共感する部分がこの本のあちらこちらにありました.自分に何ができるか考えながら生きて行く,っていうあたりと,インターネットの応用のあたりがそれになります.

私自身は大学院博士課程を修了してから現在まで,あの仕事で身に付けたアレを,この仕事のコレに応用しつつ,ソレを学んでソレが次の仕事につながって,ということを繰り返しています.

たとえばWebとかSNSとかに関しては,生化学の研究を工学系の研究に応用する,という計画で働き始めた理化学研究所のラボに自前WWWサーバーがあって,ここでインターネット関連の基礎を教わったことがスタートになっています*2

そこからWeb上のさまざまな仕組みに興味を持つようになって,その先にブログが来て,SNSが来て,そこでイロイロ試しているうちに,化学専門書の出版社から教科書出版の声がかかり,単著で書籍を出す機会につながりました.

これに関連して,初年次教育ネタをブログで公開していたらTVで紹介されました.

さらに今年の4月以降も,これらに関連して新しいことが始まることになっています.詳しくはまだ公開できないのですが,インターネットが無かったら,あっても仕事に応用していなかったら開かれることのなかった展開です.

こんな調子で,生化学の研究者としてスタートした私は,今では生化学の研究が主業務ではない毎日を過ごしているし,これから先にどうなるかもわかりません.

納得する点を多く見いだしたので,この一冊を ここで紹介することにした次第です.

なお,竹内先生は数ヶ月前のTwitterで,(ずっと先かもしれないけど)また大学から企業に移るかもしれない,というようなことをおっしゃっていたので,この本に書かれている内容は今も竹内先生の人生と同時進行しつつある内容でもあります.

結論

  • 理系の仕事をしている人にも,これから理系の仕事をするかもしれない人にも,わかりやすく役に立つアドバイスが書かれています.
  • 工業国である日本の製造業がどのようなしくみなのかが,技術者側からの視点で説明されています.これが,社会をとらえる一つの視点になっています.
  • 感情論や精神論ではなく,論理的な構成になっています.しかし,著者の「考え」や「思い」は要所要所に記されています.

このブログを書いている人

takahikonojima.hatenablog.jp

リンク

*1:私自身も大学で1年生対象の初年次教育を担当しており,「課題解決」とか「コミュニケーション」とかをネタにしているのですが,1年生全員にこういうのを強制するのは誰も幸福にならないだろうなーって考えています.選択科目なので好き勝手にやっていますが.

*2:いまキャンナビの学生に教えているhtmlコーディングは,この時期にマスターしたものです.